メモ  福沢諭吉 1834‐1901(天保5‐明治34)

明治の思想家、教育者。豊前中津藩の蔵屋敷で廻米方を勤める百助の次男として大坂に生まれる。数え年3歳で父を失い中津に帰る。〈封建門閥〉による不遇のため〈封建門閥〉への強い不満をはぐくむ。1854年(安政1)長崎に出て蘭学を学び、翌年には緒方洪庵の塾に入る。58年藩命によって江戸出府、中津藩下屋敷に蘭学塾を開く。60年(万延1)最初の幕府使節のアメリカ派遣に際し、軍艦奉行木村摂津守の従者となって渡米した。以後、3回にわたり西欧の文化をその母国において摂した。
 最初のアメリカ行から帰った年に福沢は幕府外国方に雇われ、1864年(元治1)に召し出されて幕臣となった。幕府内外の情勢、とくに西洋列強の動向からして、日本の将来を悲観し、68年4月には慶応義塾(のちの慶応義塾大学)と正式に名のった私塾によって文明の火種を伝えることに踏み切り、明治新政府への出仕の召しにも応じなかった。《学問のすゝめ》17編(1872‐76)のシリーズを刊行して、天賦の個人の独立・自由・平等を基礎に下から国民国家を形成し、そのような国民国家が〈天理人道〉と〈万国公法〉の下に独立と平等の関係で交わる国際社会を構想した。《学問のすゝめ》は福沢諭吉の名を世に高めた。また73年には森有礼、西周(にしあまね)、加藤弘之ら当時第一級の洋学者とともに明六社を組織した。
 福沢は新政府の開明性に終始大きな期待をかけ、1880年には伊藤博文、井上馨、大隈重信から求められた政府機関紙発行への参加に同意したが、翌年の政変(明治14年の政変)によって裏切られ、新聞による世論形成の念願は82年の《時事新報》創刊として結実した。
この間、日本の近代化についての彼の構想は徐々に変化していった。国際関係についての見方と国内政治についての見方が分裂し、前者が優先する傾向が彼の思想構造の中にしだいに強まっていく。国際関係における国際法や西欧国家体系への幻滅から、そこに支配するのは力のみという権力政治観に移行する。福沢は明治政府の官途には一生つかず、日本の近代化に対して官民調和の漸進主義をとった。
【平凡社世界大百科事典より】



予言と解釈  予言と解釈

福沢諭吉が子供のころ、実験したそうだ。神仏が存在するなら、神罰・仏罰が存在する。神罰が存在しないならば、神仏も存在しない。こう考えた福沢は極めて罰当たりな行為をしてみたが、何も起こらなかったという。
神仏は不存在で、預言も起こり得ないのだろうか。


福沢の実験は神罰がくだらない場合もあることを肯定したにすぎない。
神罰を下すかどうかは、神仏がお決めになることであり、
その理由は場合に応じて様々である。
この場合、日本の近代化を神仏が望んでおられ、
その近代化に必要な合理主義者福沢には神罰は下らなかったと説明できる。
事実、その後、福沢諭吉は日本近代化に大きな貢献をした。




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