メモ  出口王仁三郎の予言する真の救世主

……王仁三郎は昭和十八(一九四三)年に仮出所したあと、陶芸制作に没頭する日々を送る。晩年の王仁三郎は、その波欄の生涯とは対照的な静かな毎日を送った。それは、人間としての王仁三郎に、わずかに許されたやすらぎのときであったともいえる。
ところが、王仁三郎はある奇妙な行為にその最後の情熱を燃やす。彼はわずか一年のあいだに、約三千個におよぶ茶器を焼きあげるのである。そのなかには、のちに専門家から絶賛される、独特の色つけになる芸術作品と賞賛されるものもある。
……
それは、まさにあらたな身魂=器の出現を、後世の時代に仮託し、祈る行為ではなかったか。もはや、のちの時代に引きつがれようとしていた、王仁三郎の霊的使命は、やがてあらたな身魂の出現によってかならず継承され、そして実行される。……
(『出口王仁三郎の霊界からの警告』武田崇元著、光文社刊より)
出口王仁三郎
出口王仁三郎(1940年)
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予言と解釈  予言と解釈

……
王仁三郎自身、奇妙なことをいっている。自分は「偽者」だというのである。それは、彼が政治家・床次竹二郎の弟、真広に渡した遺書である。
「いま、大本にあらはれし、変性女子はニセモノじゃ、誠の女子があらはれて、やがて尻尾が見えるだろ。女子の身魂を立て直し、根本改造しなくては、誠の道は何時までもひらくによしなし。さればとて此れにまさりし侯補者を、物色しても見当たらぬ。時節を待ちていたならぱ、何れあらはれ来るだろう。美濃か尾張の国の中、まことの女子が知れたなら、もう大本も駄目だろう。前途を見越して尻からげ、一足お先に参りましょ。皆さんあとからゆっくりと、目がさめたなら出てきなよ。盲千人のその中の、一人の目明きが気をつける。ああかむながら、かむながら、かなはんからたまらない、一人お先へ左様なら」……(『出口王仁三郎の霊界からの警告』武田崇元著、光文社刊より)


まことの女子が美濃か尾張の国の中に現れるという。
これをどう解釈するか。
この場合の、「まことの女子」とは真の救世主のことであろう。
しかし、「美濃か尾張の国の中」とは、
皮肉なことに救世主出現に無縁の場所を故意に述べている。
救世主出現の時に、救世主に関係の無い場所を述べているのである。




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