メモ 日蓮 1222‐82(貞応1‐弘安5)

日蓮宗の開祖。
安房国長狭郡に生まれた。
天台寺院清澄寺で出家し、1253年同寺で法華信仰の弘通(ぐづう)を開始。
法華仏教至上の立場から浄土教を批判したため、浄土教徒に圧迫され同寺を退出、弘通の場を鎌倉に求めた。
そのころ地震、疫病、飢饉等災害が続出し、日蓮はこの原因を法然浄土教の流布と人々の法華信仰の棄捨によるものとし、
浄土教徒への資援禁止と法華信仰への回帰を対策として、『立正安国論』にまとめ、
60年前執権で北条氏得宗の北条時頼に提示した。
同書には、このまま放置すれば経典が指摘する自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(侵略)が起こるだろうと記されていた。
同書の趣旨は採択されず、同年かえって浄土教徒に襲撃され、61年には鎌倉幕府により伊豆伊東に流謫された。
63年に赦免、翌年一時期安房に帰ったが、浄土教徒に襲撃され鎌倉に戻った。
1268年(文永5)元の国書が届き、蒙古襲来の不安が高まるなかで、これを予言したとして日蓮の言動を見直す空気も出た。
日蓮は今まで以上に法華信仰を弘通しようと決意し、実行していった。
それは、折伏であり、念仏無間・禅天魔などの諸宗批判である。
その結果、71年浄土教の良忠、念空と律宗の忍性らは日蓮とその門弟を訴え、幕府による弾圧が行われた。
日蓮は佐渡へ流謫された。
『開目抄』『観心(かんじん)本尊抄』(『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』の略称)など日蓮の代表作はこの状況のなかで書かれた。
1274年赦されて鎌倉で幕府に「真言亡国」の考えから、蒙古調伏に密教を重用することのないよう警告した。
これもまた採択されず、日蓮は流浪の旅に出て、甲斐国身延に一時期のつもりで滞在したが、
同年蒙古が襲来したこと、弟子育成のことなどもあり、結局82年(弘安5)示寂の年まで身延に在住した。
82年療養を目的として身延を下山、常陸の温泉に向かう途中武蔵国で10月13日、満60年の生涯を終えた。
【平凡社世界大百科事典より】


日蓮聖人
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予言と解釈  予言と解釈

「伝教大師は、日本にあって末法のはじめを記していう。「・・・闘諍の時なり」と。闘諍の時とあるのは、今の日本の自界叛逆、西海侵逼の二難を指している。この時こそ地涌千界の菩薩が出現して本門の釈迦の脇仏となり、一閻浮堤第一の本尊が、この国に立つのである。
……この菩薩は仏の勅命を受けて大地のすぐ下におられる。正法、像法の時にもいまだ出現せず、末法にも出来しなければ、大妄語の大士である。」
「観心本尊鈔」より

弥勒は救世計画を考えに考えた末に出現する。
釈迦如来に将来の救世を委嘱された弥勒の出現を期待する言葉である。
また、弥勒出現の時は世界恒久平和実現のための戦いの時である。



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