メモ 聖徳太子 ?‐622(推古30)

6世紀末〜7世紀前半の政治家、仏教文化推進者。用明天皇の皇子
幼名を厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子と言う。初め上宮(うえのみや)に住み、後に斑鳩宮(いかるがのみや)に移ったという。14、15歳のころ蘇我馬子の軍に加わって物部守屋を討つ。そのとき四天王に祈念して勝利を得たので、のちに難波に四天王寺を建立したという。『日本書紀』によれば、592年(崇峻5)11月に馬子が崇峻天皇を殺すと、翌月に推古女帝(敏達天皇皇后)が即位し、翌年(推古1)4月に太子を皇太子にして万機を摂政させた。大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策、冠位十二階の制定、十七条憲法の作成、遣隋使の派遣、『天皇記』『国記』以下の史書の編纂を行い、優れた見識で蘇我氏権力を補った。
太子の死後、国家の命運を予言したという『聖徳太子未来記』なる書が流布し、楠木正成も味方の士気を鼓舞するためにこれを用いたという。
【平凡社世界大百科事典より】
聖徳太子の肖像画「唐本御影」

Crown Prince Shotoku (574-622),
the seventh-century regent, with his two sons.
The original: Japanese Painting Anthlogy, ed.et publ. by SINBI-SHOIN, TOKYO, 1941
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予言と解釈  予言と解釈

「聖徳太子の大預言」(飛鳥昭雄+山上智、徳間書店刊)では
聖徳太子が中世以降についても預言をしていたという説をとるが疑問である。
そして、この本では神国日本に神風が吹かなかった理由を
当時の軍部が逆賊だったからだと言う。
天皇に深い忠誠心を抱いていた人々に対して。
この本の関係者はそういう種類の人間なのである。



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